今日の話題は殆どの方が理解不能かと思いますので、スルーして下さって結構です。
アマチュア無線を長く運用している方や、無線の歴史に関心がある方でしたら面白いと思って下さるかも知れません。
かつて、戦前に実験局を開設していた方々が集う「レインボー会」が存在していました。昭和57年12月に発足し、会のスローガンは「戦前、ハムを通じて培われた友情をいつまでも大切にしよう」というものでした。
現在とは異なり、戦前に実験局を開設することは技術的にも資金の面でも大変なことで、しかも戦前の軍国主義の下、私生活にも制約が多い中で、個人が自宅から電波を送受信することについての許可を受けることは想像以上に大変なことだったのではないかと思います。個人で許可を受けていたのは全国で200名程度ではなかったかと思われます。
私は無線の歴史に関心を持ち、平成3年ごろから約10年間にわたり、さまざまな文献に目を通し、戦前あるいは昭和20年代に実験局やアマチュア局を開設されてきた斯界の大先輩にコンタクトをとり、当時の無線界の状況を聴かせていただきました。
そうした交流が続いていたところ、レインボー会が発刊している機関誌「RAINBOW NEWS」への投稿依頼がありました。新潟県に住んでいた頃に接点があった戦前ハムの大先輩お二人の訃報を受け、お二人の大先輩を偲ぶ記事を書いて欲しいというものでした。
↓ 今も手元にあります RAINBOW NEWS 第15号
RAINBOW NEWSを今でも手許に持っている方は殆どいないと思います。貴重なものです。
↓ 私が寄稿させていただいたのは RAINBOW NEWS 第20号
このRAINBOW NEWS 第20号が最後の刊行だったと思われます。
※※※翌年と思われますが第21号が発刊されていました。お詫びを申し上げるとともに訂正いたします※※※
この第20号の発行日が2001年3月31日ですが、それに先立ち、2000年11月19日のレインボー会の第20回総会で、会の解散が決まっていました。この解散時点で、最年少会員の年齢が78才で、会員の高齢化がすすんだため存続は困難とのことだったのだと思います。
この第20号に斯界の大先輩の方々の記事に混じって、私のような者も寄稿しております、新潟県のアマチュア無線の大先輩、小田様(戦前の呼出符号J6CX、J2NW)と中村様(戦前の呼出符号J6DG、J2NZ)を偲んでの記事です。
↓ J6CXを偲ぶ記事の一部
↓ J6DGを偲ぶ記事の一部
この二つの寄稿をさせて頂いた当時、私はまだ37才。当時のレインボー会員の大半の方が80才代や90才代でしたので、亡くなった会員のご子息が寄稿していても、そのご子息は50才代や60才代です。
戦前の実験局を開設していた方々の集う「レインボー会」と何らかの接触があり、「RAINBOW NEWS」に寄稿したことがある人の中では、私が群を抜いての最年少なのではないかと考えます。
そうなりますと、私は一年でも長く健康を保ち、記憶の減衰を防ぎ、戦前ハムの方々との交流の様子や、戦前ハムの方々のお人柄などを後世に伝えて行かなければならないのではないかと考えます。
もしかすると、30年後くらいには伝説の「レインボー会」と何らかの接触があったアマチュア無線家の最後の一人となるかも知れません。
現在ではYahooやGoogleで「レインボー会」と検索してもこの、戦前ハムの友情を大切にした「レインボー会」は殆ど見つかりません。ネット上で「レインボー会」が完全消滅してしまわないように、定期的に「レインボー会」の思い出を投稿して参りたいと思います。