今日(3月25日)の朝日新聞の朝刊21面に、大相撲の大関昇進「目安」って?と題した記事が掲載されていました。
春場所11勝を挙げて大関昇進となった朝乃山が直近3場所の勝ち星が32勝で、昇進の目安とされる33勝に及ばなかったことを指摘する声があったためにこのような記事が載ったのではないかと思います。
↓ この記事です。私も同意します。
この30年くらいは、大関に昇進となりそうな力士が現れますと、三役で3場所の勝ち星が33勝という目安が独り歩きするようになり、昭和40年代~50年代、あるいはそれ以前から大相撲を観てきたファンにとってはやや違和感があるのではないかと思っています。
今年1月13日に、このブログでもこの内容を取り上げています。
↓ この記事です
1月13日のブログ記事と、今日の朝日新聞朝刊の記事の内容は概ね一致します。新聞記事では・・・
「33勝という目安はメディアが言っているだけ」とした境川審判部長代理の見解
「明確な数字を決めてしまうと、ぎくしゃくしてしまう」とした元大関増位山(沢田昇さん)の見解
「朝乃山が春場所で10勝5敗で3場所31勝だったとしても大関に上げていいと考えていた」という元NHKアナウンサー杉山邦博さんの見解が掲載されていましたが、全て同意します。
特に杉山邦博さんの「仮に10勝5敗でも大関に・・・」というご意見は、私が場所前から考えていたことと全く一致しますので、嬉々として読ませていただきました。
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これはあくまで私の記憶なんですが、大関昇進の基準や目安は昭和61年から急に厳しくなったように思います。
昭和61年初場所(1月)~名古屋場所(7月)までの4場所は、北天佑、大乃国、北尾(後の双羽黒)、朝潮、若嶋津の5人の大関がいました。そんな中で、関脇の保志(後の北勝海=現在の八角理事長)が活躍します。
◎ 保志の昭和61年星取表
1 月 東関脇 〇〇〇●〇〇〇〇●●●●〇●● 8勝7敗
3 月 西関脇 ●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇● 13勝2敗 優勝
5 月 東関脇 〇〇〇●〇〇●〇●〇〇●〇〇〇 11勝4敗 昇進見送り
優勝を含めて3場所で32勝を挙げましたが、すでに大関が5人いるため、通常ならば大関に昇進できる成績でも昇進を見送られました。その際に「大関に昇進するには3場所で32勝では不十分なのか・・・」という空気が流れ、それをマスコミが「3場所33勝が相撲協会が示した大関昇進基準」と解釈し、以降の大関昇進の際に持ち出してきたように記憶しています。
保志は次の7月場所で・・・
7 月 東関脇 〇〇〇〇〇〇〇〇●●〇〇●〇〇 12勝3敗
このような好成績を挙げ、直近3場所で36勝。すでにいた5人の大関のうち北尾(双羽黒)が横綱に昇進して大関が4人になり、保志が大関に昇進しても5大関となりましたが、仮に保志の大関昇進で6大関になる状況だったとしても、3場所36勝(しかも優勝もしている)での昇進見送りにはしなかったと思います。
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次に、大関昇進問題で思い出す出来事を書きます。昭和46年~47年の関脇長谷川の星取表をご覧ください
◎ 長谷川の昭和46年~47年の星取表
46年11月 西関脇 〇〇〇〇●●〇●〇〇〇●●●● 8勝7敗
47年 1月 東張出関脇 〇●●〇〇〇〇〇●●〇〇●〇〇 10勝5敗
47年 3月 東関脇 〇〇〇●〇〇〇〇●〇●〇〇〇〇 12勝3敗 優勝
3場所合計30勝、優勝もしています。当然大関に昇進すると思われましたが、昇進は見送りとなり、ファンも関係者も、そして何より本人が驚きました。当時4人いた大関が成績不振で、「大関」に対する風当たりが強まったことも昇進見送りの一因と思われます。
現在の「3場所33勝」というマスコミ由来の目安が独り歩きし、32勝での昇進でもケチがつく時代ですと、3場所30勝での大関昇進は考えられないと思いますが、当時はこの成績(3場所30勝)で大関昇進を逃したことに驚いていたんです。
↓ 昭和50年代中頃の相撲雑誌。3場所30勝で大関昇進見送りを意外視する論調
↓ 当時は3場所30勝くらいでの大関昇進は珍しくなかった
当時を知るファンにとっては「3場所33勝」の目安だけが絶対視されることを不快に感じているのではないかと思います。私もその一人。
今日の朝日新聞朝刊の記事は、30年以上続く「大関昇進には33勝が絶対必要」とする流れに一石を投じるナイスな記事だと思います。