標題の通りです。
勤め先の事業所構内には見事な桜の木があり、毎年この時期(3月の最終金曜日または4月の第1金曜日)には花見が催されます。
↓ 事業所構内に咲く見事な桜
3月最終金曜日の今日、例年通り構内で花見が催されました。
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世界中でコロナウイルスの感染が拡大し、イタリア、英国、米国などの大変な状況が連日報道され、東京、千葉、埼玉、神奈川、山梨の1都5県の知事からの共同メッセージとして、不要不急の外出やイベントの自粛要請が出ている中での花見の決行には賛成も理解もできません。私が社長だったら、従業員の感染リスクに加え、近隣住民の目も気になりますので「花見の中止」を命じていたと思います。
幸いなことに、私には花見への参加を呼び掛ける人はいませんでしたので、花見が開始する午後5時半ごろに帰宅できました。
今週に入ってから、事務所や事務室、工場のドアノブやカウンターを2時間ごとにアルコール消毒をして、コロナウイルスの社内での感染を防ごうとしているいる私の姿を見ていた人々は、私が「明らかに花見には反対」の立場をとっていると感じたのかと思います。私に対して「声を掛けない」「誘わない」という思い遣りには感謝します。
私は参加しませんので、「花見をやるべきではない」と考えてはいますが、花見を公園等で行ったわけではなく、事業所の構内でのことでもあり、決行した人々を痛烈に批判する必要まではないと思います。
ハイ、花見の話題はここまで!
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前述の通り、今日の花見は私には関係ないことになりましたが、過去には似たようなことで非常にイヤな思いをし、今なおそのイヤな思いを引きずっている出来事がありました。31年前のことです。
昭和64年1月7日(土曜日)、昭和天皇崩御の日のことです。当時の私は大手銀行の地方の支店に勤める社会人2年目の職員で、まだ25才でした。
そのころは完全週休2日制ではなく、第1、第3、第5土曜日は午前のみ営業していました。1月の第1土曜日だった1月7日の午前6時33分に昭和天皇が崩御されましたが、支店は朝9時から正午までは店舗の照明を暗くし、会話も小さい声で最小限に抑えて通常通りの営業をしていました。
この日の午後は、前年末から支店長宅(社宅)で新年会を催すことに決まっていましたが、さすがに天皇陛下の崩御の当日の新年会は中止だろうと思っていました。
ところが、この支店の人々はこのような非常時にも何の躊躇もなく平然と新年会を決行したのです。その感覚に驚かされました。
支店長宅に集まった30人近くの職員は、日本中が悲しみに昏れているのにも全く関係なく、数時間にわたって大酒を飲み、大声で笑い、ドンチャカドンチャカ大騒ぎ。
泥酔した人々は「暑いから窓を開けろ!」と叫び出しまして、窓を開けると、外には近隣に住む人々が、必要最小限の食料品などを買い求めていそいそと家に帰るところでしたが、銀行の社宅から轟きわたる騒々しい笑い声に気づき「天皇陛下の崩御の日になんという不敬! ここは本当に銀行の社宅なのか?」といった表情で社宅の中を覗いているではありませんか。路上で唖然とする人々と目が合った時の恥ずかしさは今でもはっきりと記憶しています。
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私だって「昭和天皇の崩御」「昭和最後の日」「新しい元号」をテレビ、ラジオ各社がどのように報道するのかをしっかり記憶に留めたかったのですが、まだ2年目の新米職員ですので、支店長や管理職の方々が「新年会でドンチャン騒ぎをやるんだ!」と決めたら、それに抗うことなどできるはずがありません。
もしも私が当時の支店長だったならば「みなさん、今日は新年会の予定でしたが、天皇陛下が崩御されましたので新年会は中止にします。今日が昭和最後の日になりますので、みなさんのこれまでの歩みと昭和という時代を重ね合わせながら振り返ってみてください」と話して職員を少しでも早く帰宅させたと思います。
あの狂気の沙汰ともいえる「新年会の決行」と近隣住民の「驚きと軽蔑が入り混じった眼差し」は今でも忘れることができませんし、今でも皇室関連の報道があると、この31年前のことを思い出し、皇室の方々に本当に申し訳ないことをしたとの気持ちが湧いてきます。
↓ ドンチャン騒ぎの翌日の日本経済新聞朝刊
「平成最初の日」は日曜日。当時独身寮に住んでいた私は独りこの新聞に目を通しながらそれまでの25年の歩みと昭和という時代を重ね合わせながら振り返りましたが、「昭和の最後の日」にドンチャン騒ぎの汚点を残してしまったことを悔やんでいました。