埼玉在住中小企業勤務ダメ人間の思うところ・・・

「中小企業の勤め人」に復帰し「浪人」ではなくなりましたので、ブログ名も元通りに戻しました。

私の人生のピークは昭和46年・・・

昨年の夏、23年間住んでいた社宅から800メートルほど離れたところにある中古の戸建て住宅に転居しましたが、その引越し作業の際に数十年以上にわたって開けたことのない、いや、自身の記憶にもない「謎の箱」が出てきました。

「謎の箱」を恐る恐る開けてみましたら、小学校に通っていたころの通知表、身体測定記録、表彰状、児童会役員任命書、自らの絵画や書道作品、作文、修学旅行や運動会の写真など、およそ半世紀ぶりに対面することになりました。

この「謎の箱」は新潟県の実家にあったものが、他の書籍類などと混じっていつの間にか埼玉の居住地に運び込まれたものと思われます。

特に通知表はネタとしてはとても面白いので、今年1月21日に小学校1年から3年までの通知表の担任教諭所見欄を基にして「元気が足りないのは生来の気質です・・・」というタイトルで投稿しました。

↓ 1月21日の投稿「元気が足りないのは生来の気質です・・・」

saitama-dame.hatenablog.com-・・・-

この1月21日の投稿をお読みになった方の中のお一人からは「本当に元気が不足しているとか、押しが弱いとか書かれていますね。集団行動に馴染めなかったということは、当時の学業成績は今一歩だったとか?」との質問をいただきました。

結論から申し上げますと、学業成績はそれほど悪いほうではありませんが、最優秀でもありません。「元気が不足」している割にはまあまあ健闘しているかなとは思います。今、改めて振り返りますとこの当時、特に小学校2年生だった昭和46年が人生のピークだったようです。

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それでは小学校1年~3年までの学習の評定をご覧いただくことにします。半世紀以上も前のものですし、このブログを訪れる方もそれほど多くなく、数十人くらいの方々の目に触れる程度だろうと思いますので特に問題は無いものと判断しました。今後の話のタネにでもなればいいかな・・・、と思っています。

◎小学校1年(昭和45年)の学習評定

小学校という新しい環境に馴染めず、授業中も積極性に劣り存在感が無かったと思います。身体虚弱で頻繁に感冒にかかり、2学期の欠席日数は9日もあります。そのため評定は「5」より「4」が多いです。この年はまだ人生のピークではありません。

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◎小学校2年(昭和46年)の学習評定

2年生になり小学校の環境にも少しずつ慣れてきたことが評定から読み取れます。音楽や体育のような教科は苦手な上に嫌いでした。1年間を通じて欠席日数は2日で、皆勤賞とはなりませんでしたが虚弱体質の割には頑張ったと思います。そしてこの年が人生のピークだったように思います。

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◎小学校3年(昭和47年)の学習評定

この年から学習評定に翳りが見え始めます。鉄棒やマット運動それに水泳(当時も今も泳げない・・・)が特に苦手で大嫌いな体育で評定「3」を初めて付けられてしまいました。3学期の理科は「5」ではあるものの「△」が付けられている「なんちゃって5」。当時の学習評定は相対評価ですのでクラスで数人に「5」を付けなければならない中で該当者がいないため、本来は「4」だけど仕方なく繰上げで「5」を付けた事情があったのではないかと察します。

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この翌年、小学校4年生になりますと国内の中波ラジオで遠距離の放送局(札幌、仙台、首都圏、東海、関西圏、広島、福岡など)を聴取して受信報告書を送付する趣味に熱中するようになり学習意欲は低下します。小学校5年生になりますと海外の放送局の受信にも手を拡げ、6年生になりますとアマチュア無線局の開設を意識しアマチュア局の受信をしモールス符号もマスターします。学習評定は急な坂道を転がり落ちるかの如く墜ちていきます。

中学校1年生で日本アマチュア無線連盟(JARL)に准員で入会し、中学校2年生で念願だったアマチュア無線局を開設しますます勉強をしなくなります。学習評定は「5」がポツンポツンとしか無く「4」と「3」が大半を占めるようになります。

中学3年の受験生でありながら毎日「CQ CQ」と無線ばかり楽しんでいましたが高校受験では運よくギリギリ志望校に滑り込みました。しかしクラスのほぼ全員が国公立大学進学を目指す環境下で勉強嫌いな私は瞬時に落ちこぼれます。大学入試では目指す国立大学に入れず都内の平凡な私大に入学したものの途中で教職課程を投げ出してスコアブック片手に平日の昼間から野球場に向かい野球観戦に明け暮れる日々。

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勉強だけしていればいい立場の児童~生徒~学生の期間でさえ満足に成果を出せない自分が社会人、職業人として成功する筈もありません。時々幸運の女神が気まぐれで微笑んでくれて1部上場の金融機関に2度も入社できましたがいずれも倒産。働き盛りの37才から60才までは名も無い工場の冴えない事務員として働き続け、昨年ようやく定年を迎えました。

昭和46年をピークに転がり落ち続けた・・・、などと書きましたのでさぞかし不幸な人生なのかと思われるかもしれませんが、そんなことは無く幸福度や満足度は高いです。アマチュア無線という生涯にわたって楽しめる趣味に没頭し、絵にかいたような良妻賢母である妻と、公僕として奉職する今でも私のような者を慕ってくれる一男一女に恵まれて・・・いや、支えられて私は本当に幸せだと常に感じております。

昭和46年がピークというのは、あくまで「学業や勤務の評定」という一側面に関してのみ・・・ですね(^^)ゝ