埼玉在住中小企業勤務ダメ人間の思うところ・・・

「中小企業の勤め人」に復帰し「浪人」ではなくなりましたので、ブログ名も元通りに戻しました。

午後は半日の有給休暇。平日の昼の調髪で幸せ気分

この4月から有給休暇を年間5日以上取得することが義務化されたのですが、この5日の有給休暇の消化が結構大変です。

毎月1回、半日(0.5日)の有給休暇を10か月取得すれば年間5日の取得となりますので、4月も5月も半日(0.5日)の有給休暇を取得し、6月は今日、半日(0.5日)の有給休暇を消化しましたので、今日まで1.5日の有給休暇を消化できました。

あと3.5日の有給休暇消化で「年間ノルマ達成」となるのですが、7月~8月は勤め先の会社の繁忙期。有給休暇の申請は100%承認はされますが、休むと翌日が苦しくなるのでこの時期の休暇取得の難易度は高いです。

また、9月~11月は祝祭日がたくさんありますので、有給休暇をぶち込める日の選択肢が限られてしまいます。10月のカレンダーでは14日の体育の日しか祝日が無いように見えますが、22日には天皇陛下即位礼正殿の儀」で今年限りの祝日があります。

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私のような者でも、休めば多少は業務に影響が生じますので、有給休暇を取得する日を決めたら、2週間くらい前から納品される品の受入日やご来訪されるお取引先の方々とのスケジュールを調整します。また、構内のフォークリフトやエレベーターなどの月次検査や、産業廃棄物の引き渡しの日程も有給休暇の半日間に重ならないように調整をします。

祝祭日が1か月に2日以上ある月は、有給休暇を半日取得するだけでも、それに適した日が見つけにくいんです。祝祭日が無い唯一の月である6月にもっと有給休暇を消化しておけばよかったのに、と反省しています。

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今日は午後を有給休暇とし、平日の昼の街の様子を楽しんで調髪までしてきました。調髪といいましても、ほとんどハゲ頭ですので、耳の周囲や後頭部をバリカンで刈り上げてもらうだけで済みます。時間にして約10分で終わります。平日の昼に髪を切ってもらうだけで幸せな気分になりますので、今後も有給休暇を取得しやすくするために日頃の業務の手順などを改善していきたいと考えます。

それにしても、私が社会人になったばかりのころに勤めていた銀行などは、「有給休暇を行使して休みたい」などと言おうものなら、「修行中の立場で有給休暇とは何様のつもりだ!」と一蹴されてしまいましたし、もっとひどいのは、ノルマが達成できていない営業担当で、「父が危篤だと連絡がありました。明日と明後日、休みをいただきたいのですが・・・」などと上司に相談しても、「え? お前、預金純増のノルマが未達だろ。新規融資先も年金口座獲得も全然足りてないじゃないか。休めるような状態じゃないだろ。それに、お前が帰れば親父さんの病気が治るのか? お前は医者じゃないんだから、何かできるわけじゃないんだろ!」などと言い返される始末。まだ社会人になったばかりの私は、たまたまその場に居合わせたのですが、他人事でありながらもあまりの非情さに両脚が震えるくらい驚いたものです。

まぁ、金融業界という特殊な職場環境でしたし、時代背景も今とは違います。今の時代にこのようなことがあったら大問題になるだろうと思います。

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会社側から「有給休暇で休んで! 毎日早く帰って!」と言ってくれるようになったことは本当にありがたいのですが、同時に戸惑いを感じてしまいます。30年にもわたって、休まないことや夜遅くまで会社に居残ることが良いことと刷り込まれてきましたので、まだ急激な職場環境の変化についていけてないと実感します。ですが、7月もなんとか有給休暇取得できるよう知恵を絞りたいと思っています。

まるでバス停、京成電鉄に存在した「国鉄千葉駅前」駅

私は特に「鉄道マニア」ではありませんが、地理好きの延長で鉄道に関する話題にも目を通します。そんな中で、特に印象に残っている駅名があります。京成電鉄千葉線に存在した国鉄千葉駅前」駅です。この駅名、鉄道の駅でありながら、バス停のような響きがあります。

これは鉄道に詳しい方々でしたら誰でも知っている程度の話題ですので、ここに記すのも恥ずかしいのですが、現在の京成千葉駅は、1967年(昭和42年)12月1日から1987年(昭和62年)3月31日まで国鉄千葉駅前」駅という駅名だったんです。

まるでバス停のような駅名。大手私鉄の一角を占める京成電鉄国鉄にへりくだっているような印象があり、自らあえて屈辱的な駅名にしたのは何故だろう? と不思議に思っていました。

この不思議な駅名は国鉄が民営化して「国鉄」ではなくなってしまいましたので改称消滅しました。それからすでに32年も経っていますので、もしかしたら知らない方、或いは記憶から消えていた方もいらっしゃるかも知れません。

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手許に、私が高校入学してすぐに購入した昭和54年5月号の時刻表があります。東京近郊地図には国鉄千葉駅前」が載っています。当然、国鉄の千葉駅の真ん前に位置します。

↓ 見つかりますでしょうか?

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この「国鉄千葉駅前駅」は国鉄民営化により1987年(昭和62年)4月1日に「京成千葉」に改称されました。さすがに「JR千葉駅前」という駅名にするのは抵抗があったのでしょうか? それまで「京成千葉」だった駅は「千葉中央」に改称となりました。当時、混乱しなかったのでしょうか?

↓ 現在の地図

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また当時の時刻表の京成千葉線には「国鉄千葉駅前」が載っています。

↓ 「国鉄千葉駅前」見つかりましたか?

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↓ 現在の時刻表。「京成千葉」に変わって32年経ちました

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このバス停のような駅名「国鉄千葉駅前」を知ったときは本当に驚きましたし、国鉄民営化に伴いこの駅名が消滅したときは残念に思ったものです。

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関連して、関西の能勢電鉄にも「川西国鉄前」という駅がありました。「国鉄千葉駅前」に比べますとややインパクトに欠けるとは思いますが、これも珍しいと思います。

↓ 川西池田駅の真ん前にあります。見つかりましたでしょうか?

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この「川西国鉄前」駅なんですが、1981年(昭和56年)12月20日に、川西国鉄前-川西能勢口間の区間が廃止されたため、「川西国鉄前」駅は消滅してしまいました。

↓ 現在の時刻表。川西国鉄前-川西能勢口区間が消えて36年

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↓ 40年前の時刻表には、川西国鉄前-川西能勢口の0.6キロが掲載されています

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国鉄分割民営化によるJR各社が発足したのは1987年(昭和62年)4月1日。私が社会人として第一歩を踏み出した日でもあります。言い換えれば、勤め人としての辛く苦しい日々の始まりの日でもあります。還暦に手が届きそうな年齢になってもなお働き続ける自分の姿など想像もできませんでした。

先週1週間の時間の使い方を反省しています・・・

先週の日曜日(6月16日)のこのブログで、毎日の時間の使い方を見直し、11月に受験する「貸金業務取扱主任者」国試の勉強時間を確保すると宣言しました。

あれから1週間が経過しましたが、正直申し上げて「貸金業務」の勉強は全く進んでいません。

平日はほぼ毎日夕方5時半から6時には帰宅できるのですが、労働時間が約8時間と短いものの肉体的にも精神的にも消耗が激しく、夕方に帰宅しますとゴロンと横になって仮眠をとることが習慣化してしまっています。

そのため、5月下旬からポケモンGOをやらなくなってしまいました。

まぁ、先週は連日のように注目の将棋の中継があり、ついつい視聴してしまったことも時間の浪費につながってしまいました。

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勉強が進まない理由や原因として、家族から指摘されているのは、ブログの投稿に時間をかけすぎている点です。

毎日ブログテーマを考え、大まかな構想を練り、写真を撮影し、書いた文面に間違いがないかを確認するために、不明な点や曖昧な点はウィキペディアなどで確認をします。この作業で毎日2時間を超える時間を要しています。

ブログについては、1週間7日間のうち、例えば月曜と木曜は休みにしようかと考えたのですが、今日まで181日連続で投稿しており、どうにも投稿できないような事態にならない限り、連続投稿日数を伸ばしたいと考えております。

ですので、ブログは毎日の投稿を1時間以内で仕上げることを目標にします。これまでより文面の言葉の乱れや正確性のチェックを多少蔑ろにし、取扱ったテーマに関連する事項についての記述を半分程度に抑えることにし、ブログ投稿に要する時間の短縮を図ります。

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毎日午後7時台にブログを書き終えることができれば、午後8時以降は国試の勉強時間やTOEICや将棋の勉強時間に充てることができますし、休眠状態のポケモンGOにも僅かな時間でも復活できるのではないかと考えます。

また、1日あたり4時間を切っている睡眠時間を、6時間まで増やしたいとも考えます。一定の年齢を過ぎますと、睡眠不足が命取りになってしまいます。

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明日以降のブログ記事は、従来よりあっさりとしたテイストになると思いますが、むしろそれくらいのほうが読みやすくなると思います。

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20代~30代のころは、時間は無限にあるように感じていましたが、56才になり、仮にあと15年元気に過ごせるとしても、残された時間は約13万時間しかありません。13万時間といっても、睡眠時間や仕事の時間をも含んでいますので、自由に使える時間などはこの半分しかありません。残された時間が少なくなっていますので、若い頃より時間の使い方を本気で考えなければならないんですよね・・・。

せっかくの休日に「どしゃ降り」と「列車運転見合わせ」か・・・

子どもの頃から、休日の朝が嬉しくて早朝から目を覚ますクセがあります。

特に小学校に通っている頃は、休日の朝は午前4時半に起床していました。学校に行かなくてもよいという解放感があまりにも嬉しくて自然に目が覚めてしまったものです。

それに関連した余談ですが、小学校~大学まで、学校に通っている頃はまだ週休二日制ではなく、土曜日は午前だけ授業がありました。従って、休日は日曜日のみでした。ただ、学校に通っている頃は、夏休みや冬休み、春休みがありましたので、1週間に1日だけの休日でもそれほど抵抗はありませんでした。土曜日と日曜日が毎週連休となったのは、私が勤め人になって2年目か3年目くらいの昭和63年か平成元年からだったかと記憶しています。それまでは土曜日は「半ドンが一般的でしたし、殆どの国民は土曜日と日曜日の完全週休二日制など考えたことも無かったと思います。

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今日は土曜日で休日ですが、子どもの頃のように元気バリバリではなく、今は疲れた爺さんですので、今朝の起床は朝7時。今日は浦和の骨董市で古銭類を譲ってもらって、その後は練馬区西大泉町飛び地」富岡八幡宮横綱力士碑」、或いは「東京23区唯一の渓谷・等々力渓谷のどれかに行ってこよう・・・、などと考えてワクワクしていました。

ところが、NHKの「チコちゃん」をのんびり視聴していましたら、宇都宮線が人身事故で運転見合わせとの報道があり、急遽埼玉新都市交通(ニューシャトル)で大宮駅を目指すことになり大幅に時間のロスが生じ、やっとの思いで浦和駅を降りて骨董市会場を目指そうと思いきや、スゴイ勢いの大雨に見舞われてしまい、傘をさしていたものの衣服も靴も鞄もびしょ濡れに・・・。

もう「飛び地」とか「富岡八幡宮」とか「等々力渓谷」を目指す気力も失せてしまい、古銭類を廉価で譲っていただいて自宅へと戻ります。

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自宅に戻りますと、テレビでプロ野球中継を観ながら、今日入手した古銭類と、5月~6月に入手した古銭類の整理に着手します。

↓ この2か月の間に入手した古銭類

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↓ 相変わらず、「ギザ10」お気に入りです。所有数は2500個を超えました

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↓ その他の古銭類も数枚ずつ増えています

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↓ 先月の骨董市で「5円黄銅貨」の楷書体(昭和24年~32年発行)を50個入手しました

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60年以上使われてきた5円黄銅貨ですのでどれも傷みや汚れがあります。

参考までに、5円黄銅貨の新旧2種類の違いを簡単に説明します。

↓ 新旧2種類の5円黄銅貨(額面=五円が記されている面)

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↓ 新旧2種類の5円黄銅貨(日本國または日本国と発行年が記されている面)

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左が旧いタイプの5円黄銅貨で、昭和24年~33年まで発行(昭和29、30、31年は発行されず)されたものですが、「日本國」の「國」の字が旧字体です。しかも文字は楷書体(筆で書いたような字体)です。

右は新しいタイプの5円黄銅貨で、昭和34年から現在まで60年間も発行され続けています。「日本国」と「國」が「国」に改まっています。字体は現代的なゴシック体に切り替わっています。

一部のマニアは旧いタイプの5円黄銅貨をフデで書いたような楷書体なので「フデ5」と称して「ギザ10」と同じように収集の対象にしています。私も「フデ5」には関心があり、手許には1100個あります。「ギザ10」に比べて集めにくいため、「ギザ10」の4割程度しかありません。

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さて、今月は少し変わった古銭を入手しました。「未発行1銭陶貨」です

↓ これです(直径15mm)

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この「未発行1銭陶貨」ですが、第二次大戦の戦況悪化により硬貨の材料が「銅」から「アルミ」そして「錫」へと質を下げていきましたが、さらにその次の材料として「陶貨」が検討されていました。

素材が「土」ですので金属のように細かい文字を記すことはできませんのでこの陶貨には発行年号がありません。明治以降の硬貨では唯一発行年が記されていないものだと思います。本来なら「昭和二十年」と入れなければならない筈です。

この陶貨、昭和20年4月から製造に着手し、京都市や愛知県瀬戸市佐賀県有田町といった「せともの」の名産地の工場で約1500万枚製造されましたが、同年8月に終戦を迎えたため、実際に発行されることは無く、製造された1500万枚の陶貨の殆どは粉砕廃棄されました。しかしごく一部の陶貨は粉砕廃棄を免れ、70数年を経た今でも私のような古銭マニアの手許に残っているんです。

250km離れたFM東京が聴きたくて・・・

金曜日の夜を迎えて気分は最高です\(^o^)/

今週も5日間の勤務を無事に終えましたが、一週間を通じて来客や納品などが著しく多く、非常に疲れました。帰宅後は疲れ切ってグッタリしており、先ほどまで仮眠をとって疲労回復に努めていました。こんな時は傍らにFMラジオを置き、TOKYO FMを聴いていることが多いです。

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現在では民放FM放送は特に珍しくはありませんが、私が放送受信を趣味にし始めた昭和49年(小学校5年)当時、民放FM放送局は全国に4局だけ(東京、愛知、大阪、福岡)しかなく、そうした大都市圏以外ではFMラジオはNHKだけしか聴くことができませんでした。ちなみに5番目の民放FM放送は昭和57年2月のFM愛媛の開局まで待たなければなりませんでした。

そんな状況でしたので、当時新潟県に住んでいた私は、民放FM局を日常的に聴くことはできませんでしたが、中学3年の春にFM東京を聴くためだけに、廃材と余っていた電線を繋ぎ合わせた多素子アンテナを作成し、屋根の上に仮設状態で高く上げることにより、FM東京の受信に成功しました。

といっても、ザーザーと耳障りな雑音の中に僅かに放送内容や音楽が確認できる程度でした。それでも民放FM局がどんな番組を放送しているのかを知ることができて嬉しかったことを憶えています。FM放送はNHKしか知らなかった私には民放FMの番組はとても新鮮に感じました。

↓ 苦労して受信したFM東京の受信確認証

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↓ 250km離れたFM放送を受信することは中学生の私には大変なことでした

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1978年(昭和53年)4月16日は日曜日でした。雑音の中に僅かに聴こえるFM東京の放送に神経を集中して放送内容を確認し、受信報告を書きあげます。そうしていただいたこの受信確認証(ベリカード)には特別な思いがあります。

首都圏の民放FMはJ-WAVEやNACK5、FMヨコハマなどが高い人気と聴取率を誇っているようですが、私は長い間首都圏唯一の民放FM局であった老舗のFM東京(TOKYO FM)が一番のお気に入りです。

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現在ではFMラジオを聴くために選局ダイヤルをクルクルと回しますと、NHK、民放、コミュニティ局などがたくさん聴こえてきます。76MHzから90MHzまでの中でNHKが1局しか聴こえなかった頃を知っていますので、たくさんのFM局を聴くことができる今の受信環境は夢のようです(^^)。

職場では「理屈っぽいイヤなヤツ」と思われているかも・・・

勤め先の会社では、主に原材料や資材の調達を担当していますが、一部の部品類(パッキンやアンカーボルト、塗料など)の引き合いがあった際には、その販売物品を梱包発送する役割も兼ねています。

お客さまから、営業担当者を通じて、商品を発送した際の宅急便、宅配便の送り状の写しを要求されることがあります。送り状の番号から荷物の追跡ができますので、これは妥当な要求だと思います。

ただ、それだけでは満足せず、商品を発送した私に対し、営業担当者から「荷物は明日絶対に到着する」と言質を取りたがるのは困ります。ベテランの営業担当ほど、「明日絶対に届く」と確約させたがります。

それに対して、私は「絶対に明日到着する」とは答えません。何が起こるか判らないのですから、簡単に「絶対届く」などと答えるのは危険だと思うからです。ところが営業担当者はそれが不満なんです。

その様子を再現してみます・・・・

 

営業担当者のT氏から内線電話が入ります

T 氏「もしもし、〇〇設備さんへのアンカーボルト8本、送っていただけました?」

わたし「はい、先ほど佐川急便の方に引き渡しました」

T 氏「〇〇設備さんは新潟市ですから、明日届きますよね」

わたし「佐川急便のホームページでは、翌日届くことになっています」

T 氏「では、〇〇設備の△△さんには、明日絶対に届きます!と連絡します」

わたし「あ、明日届くとは思いますが、明日絶対に届く!とお客さまに確約するの

    は危険だと思います」

T 氏「え? どうしてダメなの? 明日到着するんでしょ?」

わたし「特に何事も無ければあす届くと思いますが、すでに荷物を佐川急便に引き

    渡していますので、佐川急便が確実にお客さまに届けてくれるよう見守る

    ことしかできません。明日絶対に届きます、と私は断言はできないんです」

T 氏「明後日は朝からアンカーボルト埋設するので、お客さまは明日中にどうし

    てもアンカーボルトが必要なんだ」

わたし「ほぼ間違いなく明日届くと思います。ですが、Tさんがお客さまに対して

    明日絶対に届くことを約束すると、何らかのトラブルで明日届かなかった

    場合、私たちの会社が責任を負うことになってしまうかもしれません」

T 氏「何らかのトラブルって何だ?」

わたし「荷物輸送中の交通事故、車両火災、大渋滞、ドライバーの重大な道路交通

    法違反、突然の降雪や大雨や落雷、台風、竜巻、大地震、戦争や紛争の勃

    発、それに荷物まるごと盗難に遭うことも考えておかなければなりません。

    私たちは郵便や宅急便、宅配便が翌日届くことが当たり前と思っています

    が、幸運なことにこのようなトラブルが生じなかったために翌日配達がで

    きただけなんです」

T 氏「ただ、お客さんは、明日必ず届きます!という力強い一言を求めているん

    だよな」

わたし「ですので、先ほど申しましたように、荷物輸送中の交通事故、車両火災、

    大渋滞、ドライバーの重大な道路交通法違反、突然の降雪や大雨や落雷、

    台風、竜巻、大地震、戦争や紛争の勃発、それに荷物まるごと盗難に遭う

    トラブルなどが無ければほぼ間違いなく明日届きます、と答えれば十分誠

    実な答えですし、ウチの会社が責任を負わされることも無いと思います」

T 氏「このような説明をするとどう違うの?」

わたし「無条件に明日絶対届きます!と約束をしますと、商品をお客さまに明日中

    に届ける責任がウチの会社に生じます。仮に高速道路上で玉突き衝突事故

    が発生し、佐川急便の車両もその事故に巻き込まれて動けなくなった場合

    には、トラブル発生の可能性を示唆していなければ、Tさんや私が玉突き

    衝突事故の現場まで行ってアンカーボルトを取り戻して、〇〇設備に届け

    ることなるかもしれません」

T 氏「簡単に絶対に明日届きます!なんて言っちゃいけないんだなぁ・・・」

わたし「十分説明しておけば、どうにもならない自然災害や、佐川急便に責任があ

    るようなことにまで、ウチの会社が振り回されることにはならないと思い

    ます」

 

こんな説明をしていましたら、あっという間に30分も経っていました。このT氏は比較的物分かりが良いので助かりましたが、どうにも納得しない人もいますし、私を「理屈っぽいイヤなヤツ」と毛嫌いする人もいます。それでもこうしたリスクを削減するために今後も必要な説得を続けます。

銀行のフレッシュマンだったころの珍事・・・

今年11月の貸金業務取扱主任者試験を受験するにあたり、少しずつテキストを読み始めていますが、読み進めるにつれて、銀行に勤めていた当時のことを思い出します。

貸金業者と、「預金」「融資」「為替」の3つを取り扱う銀行とは根本的に違うのですが、民法を中心とした法令などは、銀行で貸付業務に携わっていた当時に学んだことそのものですので、共通する部分が多々あります。

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そんなことで、ついつい銀行に勤め始めた当時の珍事を思い出してしまいました。

私が銀行に勤め始めた当時、それぞれの支店に配属になった男性の新入行員は、まず普通預金や定期預金、積立定期預金などの預金業務を担当し、それから当座預金担当に移り手形や小切手についての実務を学びます。その後内国為替を担当し手形の取立などを学んで預金や為替の概要を学んでから融資担当になり、融資業務をある程度経験してから営業(いわゆる外回り)になるか、或いは融資業務に特に適性があると認められればそのまま融資担当となる場合もあります。また特別な適性があるものは外為を担当することもあります。

私はどちらかといいますと融資と外為が中心でしたが、新入行員のころは預金窓口も経験します。約2週間の預金窓口担当の間に珍事が起こりました。

私の窓口に年配の女性が来られ、バッグの中から紙幣100枚を取り出して普通預金に入金されました。その紙幣100枚を再現しますと・・・・

↓ こんな感じです。1円紙幣100枚。(一応現在も有効な紙幣ですので「見本」の

 表示をしています

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昭和62年の夏のことです。今から32年前のことですが、さすがに当時でもこの1円紙幣は市中に出回ってはいません。この当時で45才以上の方ですと、戦後すぐの時代に実際に通貨として使用した記憶があるようでした。

私は古銭や紙幣を子どものころから収集していましたので、当然この1円紙幣が当時でも通貨として有効であることを知っていました。速やかに枚数を数えて普通預金に100円の入金の操作を行いました。

↓ 紙幣100枚の束で100円。左側にある100円硬貨1ケと同じ価値です

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現行通貨とはいえ、戦後42年を経てこの紙幣を預金として受け入れることになるとは思ってもいませんでしたのでビックリしました。この紙幣を持ち込まれたお客さまに訊きましたら、ご自宅の物置の片隅にある棚の中から出てきたとのことです。この写真にある紙幣に比べて、当時持ち込まれた1円紙幣は傷みが激しかったので、わたしが両替して持ち帰ることはせず、日銀に送ってしまいました。周りの若手職員からは「どうしてこの紙幣が現在でも有効なものと知っていたの・・・?」などと質問されて嬉しかったです。

↓ 日本貨幣型録より「令和」の時代になってもこの紙幣は1円として有効です

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↑ 「現行」の2文字が示すように、法令では現在でも1円として使えることになっています。といっても普通の店舗などではこれが通用する通貨であるとは判ってもらえないと思いますので買い物は恐らくできないのではないかと思います。銀行や郵便局でしたら、どの店舗にも現行通貨の見本リストが置いてありますし、入金を拒否できないことにはなっているようですので、1円として預金できるかも知れませんね。試しにやってみようかな(^^)

まんが「スロウスタート」で思い出す出来事があります

3か月前に発売された、まんがタイムきらら4月号の表紙がスロウスタートでしたが、「スロウスタート」はお気に入りの作品の一つなんです(^^)

↓ まんがタイムきらら4月号の表紙。毎月美しい表紙ですね

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↓ この作品は、昨年1月から3月までアニメ化されました

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スロウスタート」は、高校入試の前日におたふく風邪に罹患して、公立も私立も受験ができなかったために中学浪人となった一之瀬花名(いちのせはな)さんが、1年間の浪人生活を経て、自分を知る者がいない長乃県爽井沢の星尾女子高校に入学するところから話が始まります。1年遅れで高校生活をスタート(だからスロウスタートなんですね)させますが、浪人していたことを周りの友だちに秘密にしており、浪人していることや年上であることがバレるのではないかとドキドキハラハラする場面があります。

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ところで、私自身が高校に入学したのはちょうど40年前、昭和54年(1979年)ですが、当時の同級生のうち2~3パーセントが中学浪人を経て入学していました。

現在では、殆どの私立高校に「特別進学クラス」のようなクラスが設けられているため、上位の公立高校に不合格だった場合は、妥協して私立高校の「特別進学クラス」に進学することになりますが、40年前の地方の私立高校にはそのような進学を意識したクラスが無い場合が多く、上位の公立高校のスベリ止め校として機能していない私立高校が多かったんです。

例えば、偏差値60の公立高校を不幸にして不合格になった場合、通学圏内にあるスベリ止め私立高校は偏差値40くらいで、誰でも入れる高校しかないこともあります。地方ですので交通機関も不十分で、通える高校は限られています。

ですので、中学で比較的上位にいた生徒が公立高校入試に失敗すると、偏差値40の私立高校の制服に身を包み、3年間ご近所の目を気にしながら私立高校に通学するか、捲土重来を期して1年間中学浪人をするか、いずれかの選択をすることになります。

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40年前の地方の高校受験事情はこのようなものでしたので、県立の比較的上位に位置する高校には2~3パーセントくらいの中学浪人がいましたし、中学浪人のための専門予備校も存在していました。私の出身地の新潟県のほか、福島県青森県も当時は中学浪人が一定数存在していたと聞いています。

私が地元の県立高校に進学(もちろん現役です!)しましたら、同級生に小中学時代の先輩の村〇さんがいることに気づきました。高校の同級生の約86パーセントは他の中学から進学してきた人たちですから、村〇さんが中学浪人を経てきた年上の人であることを知る人は少ないですし、村〇さんの名誉のためにもそれがバレないように努めて自然に接していました。

1学期を終え、高校で初めての夏休みを迎えたある日、村〇さんの家に私と佐〇さん高〇さんの4人が集まり、麻雀をやることになりました。佐〇さん高〇さんは高校の同級生ですが他の中学出身。麻雀が強い佐〇さん高〇さんは数学を非常に得意としてその後簡単に国立大学の工学部に進学する秀才。

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麻雀は始まったばかりの東二局。私の上家が村〇さん、下家が佐〇さん、対面が高〇さんです。親になって張り切る私はツモる牌が次々と繋がり、あっという間に平和、一盃口ができ、ドラも2枚含んでいます。「六萬」と「九萬」の両面待ちで「六萬」ならばタンヤオも加わります。あまりにも早く聴牌になったのでリーチをかけてみます。

村〇さん佐〇さん高〇さん、3人ともに親の早いリーチに警戒しますが、河にある捨て牌も少なく安全牌がはっきり判らない状態。

リーチから3巡目でしたでしょうか、そこで劇的な場面を迎えます・・・。

 

村〇 「ウーン、これ(六萬)どうかな?」

わたし「あ、それ・・・・です・・・・。ロンさせて・・・ください」

村〇 「あーー、親に振り込んでしまったか・・・」

わたし「あ、スミマセン、六萬は高目です。メンタンピン、一盃口、ドラドラです」

村〇 「えっ!親のハネマンか?」

わたし「はい、本当にスミマセン・・・」

村〇 「いやー、始まったばかりで18000点か~、はい点棒、2000点

    お釣りちょうだい」

わたし「あ、本当にスミマセン、いただきますです。お釣り2000点です」

佐〇 「おいおい、どうした。村〇にそんなにペコペコしちゃって」

高〇 「そうだぞ、親ハネだろ、普段だったら喜びを爆発させるだろ!」

佐〇 「そう、いつもだったら、ローーーン! メンタンピン、イーペードラ

    ドラバンバン!! 親のハネマーーーン!!って大騒ぎするだろ」

高〇 「なんだか嬉しくなさそうだな。村〇に遠慮してんの?」

わたし「あ、いやそんなことは・・・」

佐〇 「なんかヘンだな、村〇に弱みを握られているのか?」

わたし「いや、全然そんなことは・・・」

高〇 「なんか怪しい。村〇とどういう関係?俺の目を見て答えろよ」

わたし「あ、いや、親ハネで嬉しすぎて、努めて冷静を装ったからかな」

佐〇 「いや、明らかに普段とは違うぞ」

村〇 「あのね、こいつはオレにかなり遠慮してるんだよ。オレはこいつの小

    中学校の先輩なんだよ。幼稚園も同じだったかな。だから10年くら

    いは先輩と後輩だったんだよ。それが今年から同級生といってもすぐ

    に対等に話すことに抵抗があるんだろう。気を遣ってくれてありがと

    うな」

高〇 「え!村〇、年上だったのか」

佐〇 「それは知らなかった」

わたし「なので、手放しで親っパネェェェェ!!!!って喜ぶわけにもいかなくて」

村〇 「まぁ、でも、今は同級生なんだし、気を遣わなくてもいいから」

わたし「はい」

高〇 「では、親の連荘で続けましょう」

佐〇 「村〇をハコテンにしてやる(^^)」

村〇 「年上なんだから手加減してくれよ(^^)」

わたし「同級生なので、思いっきり戦います(^^)」

 

こんな場面がありました。無意識に遠慮する口調や態度になってしまい、村〇さんには悪いことをしてしまったと思いますが、特にその後に尾を引くことも恨まれることも無くホッとしました。まんが「スロウスタート」を読むと、いつもこの場面を思い出してしまいます。

40年前の思い出話ですが、本当に楽しかった。この先、定年退職をして自由な時間を手に入れても、40年前のあんなにも充実した楽しさを感じることはもう無いんだろうなぁ、と思います。

遅々として進まない「部屋の片づけ」・・・

標題の通りです。古新聞、古雑誌、古本などで溢れている部屋を片付け、最小限必要なもの以外置かないシンプルな部屋にしようと考え、今年の正月から部屋の片づけをしてますが、遅々として進みません。

何もないシンプルで快適な空間で、落ち着いて無線や将棋を楽しみたいと思っていますが、いつまで経っても部屋が片付きません。家族からは、「全部捨てればいいんだから、こんなに簡単なことはないでしょ」と突っ込まれるんですが、なかなか捨てる勇気がありません。本当に困ったものです。

先ほども、5年分の「将棋世界」(月刊誌)とか、「週刊将棋」という新聞(休刊までの約2年分)を引っ張り出してみましたが、やはり捨てることはできないんですよね。

↓ 5年分の「将棋世界

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↓ 「週刊将棋」、休刊までの約2年分があります

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過去にも,CQ ham radio誌や週刊ベースボールを夫々10年分、ライトバン1台分を思い切って廃棄したことがありましたが、捨てた後になって「あぁ、昭和52年9月号の特集記事が読みたいなぁ」とか「昭和51年の日本シリーズの記事が読みたいなぁ」・・・と、思い出して読みたくなるんですよね・・・。

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それにしても、古新聞、古雑誌、古本などは主に無線、将棋、相撲、野球、古銭収集、地理、科学、英会話、マンガなどに偏っていまして、家族はあまり関心を示さないジャンルのものばかりです。

仮に、私が死んだりしたら、家族(遺族)にとっては膨大な量のゴミになりますので、大変な迷惑を及ぼすことになります。

古新聞や古雑誌や古本の類はヤフオクに出品でもしてみようかな、と考えています。

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ただ、古雑誌や古本はまだ処分しやすいほうで、アマチュア無線で交信した際に交換したQSLカード(ハガキ大のカード)が数万枚あり、これが遺品として残された場合は家族(遺族)は処分にもの凄く困ると思います。数万枚のカードのうち2千枚くらいは、珍しい国や地域のカードであったり、すでに亡くなられたアマチュア無線界の偉人のカードです。私の手で廃棄することはちょっとできないです。

さらに5万枚を超える古銭の硬貨(重量は118キロあります)や1300枚に及ぶ古い紙幣も家族にとって関心が無く、無価値に見えるようです。古銭類は今後は買う側ではなく、売る側になり、徐々に手放していくことを考えて行かなければならない歳になっていると思います。

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机の上には小さな無線機が1台と電鍵だけあり、部屋を見渡すと書棚には必要最小限の本や雑誌がきれいに並び、畳の上には将棋盤(四寸盤)と座布団だけが置いてある。こんなシンプルな部屋で、無線や将棋を楽しみながら、誰にも会わず穏やかな晩年を過ごしたいと思っています。明日も部屋の片づけをガンバロウ・・・。

実現不可能な計画を立てて家族に心配を及ぼしています

3日前のこのブログで、社員旅行がイヤなので旅行の日程に重なりそうな「貸金業務取扱主任者」の国家試験を受けようと書きました。受験するならば当然合格を目指したいですので、これから5か月間にわたって受験勉強をすることになります。

振り返りますと、2013年(平成25年)2月の作業環境測定士試験を受けて以来、6年半も国家試験を受けていませんでした。この6年半の間に学力や記憶力、集中力は間違いなく衰えているはずですので、かなり苦戦を強いられそうです。

また、かつて「銀行業務での貸付」を経験しており「貸金業」とかなり重なる部分もあるとは思うのですが、銀行を退職して20年近く経っておりますので、素人並みの知識しか残っていません。

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実は50才になった6年前に、「多少は英会話ができる爺さん」を目指すべくTOEIC730点を目標にし、「いずれ入居するであろう老人介護施設での将棋最強位」を目指すべく将棋の勉強をしっかりやろうと考えていましたが、どちらもなかなか計画通りに進みません。TOEICなど600点のカベすら突破できません。英会話学校にでも通えば100点くらいアップするかな・・・などと考えていますが、50代半ばになった老いぼれでは無理かな・・・と思ったりします。

一昨年の秋まで、2人の子どもの公務員試験対策のお手伝いをしていたこともあり、自身のための勉強が疎かになっていましたし、3年前からポケモンGOに力を注いでいましたので、英語も将棋も勉強時間が不足していました。

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そこで、今日は11月中旬の「貸金業務取扱主任者試験」までの、夕方18時30分から深夜24時までの日々の行動計画を立案しました。

↓ これが向こう半年間の夕方から深夜にかけての学習予定計画です。

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これを見た家族からは・・・

「計画そのものが無理。すぐに頓挫する」

「若い人でも難しい。知力も体力も衰えており、実行したら倒れると思う」

「ブログを止めて、年内は貸金業務試験のみに専念すべき。どうしてもTOEIC

 をやりたいのなら来年から」

といった声が上がりました。

確かに体力は落ちており、昨日も今日も昼寝ばかりしていました。これは無理ゲーかなとも思います。

家族のアドバイスに従い、TOEICは来年集中して受験することにして、今年は貸金業務に専念するのがよいかと思います。空いた時間に、AIを使った将棋の勉強と、40年間細々と続けているアマチュア無線。週に一度はポケモンGOをやるのも悪くないかと思います。

家族からは「7年前の公害防止管理者、6年前の作業環境測定士の国家試験に合格し、その後は2人の子どもの公務員試験対策に随分協力してくれたんだから、これ以上無理に勉強などしなくていいのでは、好きな将棋や無線をマイペースで楽しんで、穏やかに余生を過ごすことを考えたほうがいいと思う」と重ねてアドバイスを受けました。

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確かにそうなんですよね。仕事をしながら夕方から夜にかけて無理をしますと倒れるかもしれません。自分では若いつもりでも、知力も体力もかなり衰えているはずです。

そこで計画を見直しました。

↓ 改正学習予定計画です

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土曜日は、朝から外出することが多く、日曜日は午前10~正午までNHK将棋番組視聴、そして日曜日の午後は昼寝です。6月後半はこの学習予定計画にしたがって動いてみます。貸金業務取扱主任者試験の学習が順調であれば、7月から少しずつTOEICの学習をねじ込んでみたいと思いますが、そんなに甘くはないでしょうねぇ・・・。