埼玉在住中小企業勤務ダメ人間の思うところ・・・

「中小企業の勤め人」に復帰し「浪人」ではなくなりましたので、ブログ名も元通りに戻しました。

平成世代との決定的な違いに気付いてしまった

今年令和3年は、仮に「平成」が続いていたら平成33年。「昭和」が続いていたら昭和96年に相当する年です。

私、個人的には「昭和」の時代は25年8か月、「平成」の時代は30年3か月過ごしており、「平成」のほうが5年くらい長いので、勝手に「平成世代」に準ずる立場で、昭和20年代以前に出生した方々よりも、平成の時代に出生した方々と、物事に対する考え方やフィーリングが近いのではないかと思っておりました。

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しかし今日、改めて小学校に入学した当時(昭和45年=1970年)の生活を思い出してみましたが、「平成世代」の方々には想像もできないことを経験している、あるいは知っていることに改めて気づいてしまいました。

パッと思い出しただけで5つありました。

 

1.蒸気機関車が牽引する通常列車に乗ったことがある。

 この蒸気機関車は、現在でも時々見かける観光客が乗車する目的の蒸気機関車ではなく、通常ダイヤで定期運行している列車です。昭和40年代前半は冬になると新発田駅>>水原駅蒸気機関車が牽引する列車に乗り、瓢湖の白鳥を見に行った記憶があります。

 

2.白黒テレビを視聴していた

 一部カラー放送もあったようですが、ウチのテレビ受像機はカラーテレビではないので常に白黒の映像です。今でも「8時だよ全員集合!」や「ケンちゃんシリーズ」で白黒画像の場面の記憶が蘇ります。

 

3.クラスの名簿で約半数の家に電話機が無かった

 小学校1年のクラスの名簿が配られた際に、電話番号の末尾に(呼)の記号が付せられている家庭が半数近くありました。私の家にも電話機はありませんので、ご近所で親しくして下さる裕福な家庭の電話を利用させていただいてました。携帯電話全盛で固定電話が必要ないという現代の理由とは違い、電話機を設置するのには高額な電話加入債券を購入する必要があり、一般家庭にはややハードルが高かったように思います。

 

4.近所の農地に多くの肥溜(こえだめ)があった

 ヒトの屎尿を溜めて発酵させて農作物の肥料にしていた時代の名残で肥溜を見かけることが珍しくありませんでした。昭和40年代に入ってましたので、今思えば肥溜とし稼働、機能していたのではなく、雨水が溜まっていただけなのではないかと考えられます。コンクリート製で2槽式(片側に屎尿もう一方に混ぜるための水を貯蔵)の肥溜のそばを通るときには緊張して歩いていた記憶があります。

 

5.百円紙幣で買い物をした記憶がある

 ↓ 写真をご覧ください

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この当時、100円は「紙幣」と「銀貨」と「白銅貨」の3種類が混在して流通していました。50円も「ニッケル貨」と「白銅貨」の2種類が混在して流通していました。私は新潟県のしかも北東部に居住していましたが、新しい現在の100円硬貨や50円硬貨への切り替えが都市部よりも遅れていたのではないかと思われます。

 

このような経験や記憶がある私でも「平成世代」の仲間に入れてくれますよね(^^)